子供の頃、僕は父や母に「僕は大きくなったら野球選手になれるかな?」とか、
「プロゴルファーには?」とか、ことあるごとに訊いてた時期があって、その度
両親は口を揃えて「なれるなれる。今からなら努力すれば何にでもなれるよ」と
答えてくれていました。両親があまりに平然とそう答えるから、僕は「自分が
将来何にでもなれる存在だ」ということを当然だと思っていて、その考え方は
中学を卒業するあたりまでずっと僕の中に根付いていました。

自分がもはや「何にでもなれる」状態ではないということに気付き始めたのは
中3の秋頃で、それは高校受験という人生の第1分岐点を意識し出した時でした。
自分より頭の良い人間や運動神経の良い人間はこれから自分より高いステージに
上がって行くということを明確な事実として目の当たりにして、僕の歩む人生は
もう既にある程度取り返しのつかない所まで来ているということを、だんだん
自覚し始めたのです。

しかしその自覚はそれほど深刻さを帯びたものではなくて、「そういえば、もう
僕は多分、将来サッカー選手や野球選手にはなれないよなー」程度のものでした。
「何にでもなれる」の頭に「スポーツ選手以外の」が付いた。元々スポーツを
生業にしようとは考えていなかったのでショックはありませんでしたが、自らの
将来に対して何らかの限定がつき始めたことに僕は少し複雑な思いを抱きました。

こうした限定は日常を過ごしていく中でどんどん増えていきました。高校の文理
選択、そして大学への進学で将来への限定はより決定的なものになっていきます。
「文系を選んだからおそらく将来モノづくりの最前線には立てないだろう」。
「この大学に入ったから」。「経済学部に入ったから」。「成績がこうだから」。

最近、就職活動はその最たるものだと思い始めました。志望する企業からお祈り
メールが届く度、「○○の社員にはなれない」という形で、将来に具体的な
限定が増えていく。可能性が閉ざされていくのがめっちゃ分かりやすい。すごい。
もちろんそれはかなりマイナスの見方だと思います。そもそもから「自分は将来
何になりたい」というのが固まっていれば多少のズレはあろうともその方面で
攻めていけるし可能性云々の話じゃなくなってくるとは思う。

でも、僕にはそれがないというか、あっても、ものすごいボワボワしたもので
全然固まらない。業界研究とかそういう次元じゃなくちょうボワボワなんだよ。

多分「就職決まんねー」って言ってる僕の周りの奴らとか世の中の若者たちも
そんな感じの人が多いんじゃないかと思います。そんな調子で仮に職に就けたと
してもかなりしんどいだろうし日常とかを楽しめないだろうよ。だから最近僕は
出来るだけ就労時間の短い職場を探そうとしています。きっと根本的に労働に
対する意識みたいなものが低いんだろうな。

ああ。今日は「お祈りメールが僕の将来の可能性を閉ざして行く感じがすごく
リアルでちょう面白い」って文章を書こうと思っていたのに、最終的に闇雲に
就活しても無駄だよみたいな結論になってしまって残念です。
網戸から漏れる風がぬるいビールみたいだ。