先月の終わりに24になってから歳をとるということについてずっと
考えています。24歳(まだ全然若いけど)、来るとこまで来たなと
ぼんやり思うのは、父が母と結婚したのが24のときだったからです。
僕もまあ一応結婚を考えるような相手には恵まれているけれど、誰か
自分と全く違う環境で育った人と家族になって、一緒に暮らすと
いうのはまだ、僕の中ではけっこう途方もないことのように思えます
(色々あってご両親にはまだ挨拶にいけてません)(……)。

留年という、社会人になるにあたって満足なステップを踏んでいない
状態から定期的な収入を得させてもらえるようになったことについて
今の職場には非常に感謝しています。しかし、それにも関わらず
ちょっとなんか仕事に身が入っていない、入らない。「まだ若いし
(もし今の職場を去ることになっても)なんとかなるよなー」という
青い考えが常に頭に浮かんでいるからだと思います。

これから25・26・27と歳を重ね、どこかのタイミングで所帯も
持って、「まだ若いし」と虚勢すら張れなくなる時がいつか、きっと
来るでしょう。僕は今からそうなることが、とても恐いです。
人生が収束する瞬間、というか、若さに胡坐をかけなくなる瞬間
(こういう話をするといい年のおじさん、時には同年代の人々までも
「まだ若いのになに悲観的になってんだ」みたいなことを言います。
だからー、その「まだ若いのに」すら言えなくなるのが怖いんだよ)。

「歳を重ねること」について考えるとき、僕がいつも思い出すのは
去年の会社の忘年会でたまたま席が隣り合った、既に定年を迎えて
いるものの、技術を買われて会社に残っている社員さんのことです。
酔っぱらった社員さんはずっと、東京で働く息子さんの話をしていて、
「東京!すごいだろ」、みたいなことを何度も言っていました。

そのとき僕は、ぼんやりとこの人はもう人生の主役のバトンのような
ものを既に息子さんに預けてるんだな、と思いました。僕もいつか
自分じゃない誰か(それが例え血の繋がった息子・娘だとしても)の
業績をまるで自分のことのように語るときが来るのかな、と。それは
きっとすごく幸福なことなんだろうと思います。でも僕は社員さんの
話に「すごいですねー」なんて相槌を打ちながら、だんだん虚しさに
取り込まれていくのを感じました。

「この人の人生の主役はもうこの人自身じゃなくなってる」。
幸せでも、それは、なんか嫌です。僕が老いを、若さを失うことを
恐れるのはここら辺に根っこがあるからかも知れません。

「まだ若いから」が言えなくなった後に生き甲斐として縋るのが
結局自分より若い人間だなんてちょっと虚し過ぎると思う。最後まで
主役で走り切って、誰にも託さずゴールするには、ほんと、どうすれば
いいんだろうな。みたいなことが、このところずっと頭を巡っている。